01.11.12:48
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07.27.23:21
一連の流れを見ていて、京極夏彦「京極堂シリーズ」を思い出した。
妖怪ミステリと呼ばれる推理小説だが、この小説の場合は通常の推理小説で解決編にあたる部分に「憑き物落とし」が行われる。 犯人や周りの人間にとりついた思想の偏りであったり執着であったり重荷であったりするものを京極堂が彼らに語りかけ、言葉で解体することによって「落として」しまうのである。 結果、彼らは文字通り憑き物が落ちたように事件から開放されるのである。 思い出したのはこのときの京極堂の語る姿勢だ。 彼は神主である。 だから、信奉する神(というか宗教ですかねえ。陰陽道系は神様いっぱいいるから)は一つでありそれ以外の神には本来仕えない。 しかし、彼は修行僧に憑いたものを落とす場合は仏教の成り立ちから語り、修験者に憑いたものを落とす場合はウ歩を踏む。うだつのあがらない小説家に語る場合は御伽噺から入ることもある。 彼は相手の信ずる神を理解し、彼らの言葉を語り、彼らの理解する世界で語ることによって彼ら自身に過ちを理解させるのだ。 理解させる認めさせるためにはまず彼らを理解し、彼らが理解できる言葉で語らなければならない。 相手に理解できない、受け入れられない言葉で語ることは、その内容が正しくとも等しく無意味だ。 何も解決などはしない。 今回あの方は「自分の意見を通す」ということに非常な執着を持っているようだが、「自分の意見を通す」ということと、相手に理解されることは全く異なっている。 あの方は自分の言っていることが理解してほしいと思っている人たちにとって異国の言葉であるということに気づくだろうか。 PR
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